『どこに依頼しましたか?』

——43歳、3人の母が独学の書類で銀行に挑んだ日

沼の底

銀行の駐車場。震える手を押さえて、必要書類を再確認した。

今日は住宅ローンの借り換えの相談日。この日のために何度も何度も書き直した交渉メモをもう一度見返し車を降りた。

13時半。銀行のロビーは制服を着た女性や、スーツ姿の男性で混み合っていた。私は自動受付機の前に立った。画面には「入金・出金」「両替」「振込」の項目。

(私はこのどれにも当てはまらないんだな)

と場違いな場所に迷い込んだような心細さが込み上げた。

深呼吸をして、私は『その他』のボタンをまだ少し震えの残る指先で押した。昨日までの弱気な私にサヨナラを告げるスイッチを。

光の筋

ピンポーーーン。

電子音が静かなロビーに響き、もう後戻りはできないという覚悟が、胃の奥にすとんと落ちてきた。

『秋山様ですね、お待ちしておりました。』

担当者の穏やかな声に、張り詰めていた肩の力が一瞬だけ抜けた。

案内された個室の椅子は、想像していたよりもずっと柔らかくて、でもその柔らかさが逆に、これから始まる交渉の重みを感じさせた。

「住宅ローンの相談に来ました、秋山と申します。」

挨拶を済ませ、促されるまま椅子に深く腰を下ろした。大きく一つ、深呼吸。

13年の看護師生活で叩き込まれた「どんな修羅場でも崩さない営業スマイル」が、今は私の仮面(マスク)だ。

喉の奥で鳴り響く、耳障りなほどの心臓の鼓動。それを相手に悟られないよう、私はゆっくりと、でも迷いのない手つきでカバンから封筒を取り出した。

この中に、私のこれまでの苦労と、これからの決意がすべて詰まっている。

机の上に並べたのは、夜な夜なパソコンと格闘して作り上げた、私なりの『戦いの記録』。担当者がゆっくりと一枚一枚に目を通す。ある一枚を手に取ったとき、個室の空気がわずかに、でも確実に変わったのを感じた。

「この離婚協議書はどちらかに依頼されたものですか?」

ここが勝負場。奮い立つ気持ちとは裏腹に、少しでも視線を落としたら泣いてしまいそうだった。

「自分で作りました。」

(あ、声が少し震えちゃったかも。でも、逃げたくない。)

まっすぐ担当者の目を見て、私はそう答えた。

脱出

「すごいですね。」

担当者のその一言が、乾いた砂に水が染み込むように私の心に広がった。不安で震えていた心臓が、今度は誇らしさでトクンと跳ねた。私はさらに一枚、家計改善のシミュレーション表を差し出した。今度は、営業スマイルではない、本当の笑顔がこぼれていたと思う。

離婚してからの一年半。真っ暗な沼のように感じていた日常。何をすればいい?ここからどうやって這い上がったらいい?重い不安の中に心は沈んでいた。そんな私にかけられた担当者からの称賛の一言。

その一言はもう自分が沼の中にはいなことを気づかせてくれた。

私の居場所

家へ帰ると春休み中の子供達が三人でテレビゲームをしていた。足元に感じる愛猫の福の柔らかい毛の感触。

「ママおかえりー!」

この騒がしさが私を「日常」へと引き戻してくれた。